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若生敏由 さま

 投稿者:Sekko  投稿日:2021年 3月 3日(水)04時07分48秒
  コメントありがとうございます。


>>>「神は全てを与える。全体性以外は」という言葉は、だれのものなのでしょうか。<<<

特定の引用ではありません。Dieu donne tout sauf la totalité.というものですが、あらためて考えると意味は二つあります。

ひとつは、親が子供に「ここにあるものはなんでも好きなように遊んでもいいよ、でも、電気のコンセントには触っちゃいけないよ、危ないから」というように、神は「ここにあるものは何でも食べてもいいよ、でも、あの木の実は食べちゃいけないよ、死ぬ体になるから」と、子を思っての自由の制限。それは、制限を設けることで自由というものを探り獲得し選択することを教えるという「教育的?」意味。「‥以外は全部」という言い回しです。

もう一つは、逆で、神のくれる「全て」は「無限」であり、その「無限」は、人間が実存世界、現象世界では理解できないし到達もできないものです。「全体性」というのは人間の想像できる範囲での「全体」を網羅したもので、そのような有限の全体性は、神から来るものではなく人間が自分の都合のよいように他の人間に押し付ける逸脱にもなるという感じです。(そのまた逆で、全てを与えるけれど、無限を含む全体性は与えられない、とも読めますが、無限というのは「含まれない」ので無理かも。)

ともかく、この世にある限り、「全て」を得ることはできないし、やはり超越的感性にインスパイアされた理念みたいなものに拠って、たえず生き方を更新していくことを促されているのかなあと思います。

>>>「聖霊がイエスを荒野に追いやった」というマルコの一節について。
 ご存じかもしれませんが、田川健三が自身の訳著で興味深いことを記しています。興味深いというのは、本人が若い頃に出した『マルコ福音書・上巻』(1971)での注解を、『訳と註』(2008)では、不正確だったと率直に認めて、「この箇所は霊が何ほどか強引にイエスを荒野にほうり出した、という意味」であると記していたことです。学者であっても、通念や通説との的確な距離を保ち、確信を提示するのはやさしくはないのだなと感じました。<<<


それは知りませんでした。田川健三さんの『批判的主体の形成』は、学生運動が挫折した後で大学に入った私のそれこそバイブル的な本でした。誠実に生きるというのはこういうことかと思いました。その後『イエスという男』は読んで、いろいろな気づきを得ました。
今回、若生さまのコメントを読んで懐かしくなり、田川さんをググったら、「神を信じないクリスチャン」だと自称なさっているとか。

「神を信じる」というのは? credere Deum ?, ? credere Deo ? ,  ? credere in Deum ?と三つあって(アウグスチヌスからトマス)、「神の存在を信じる」、「神の権威を真実だと受け入れる」、「愛によって形作られた信仰」だというのを当てはめると、私は田川さんと逆で「神を信じる不可知論者」かなあと思います。

神が存在するなら、神は私が信じるとか信じないとか問題にするとは思えないし、科学とか知性とかが「不可知」領域を減らしてくれるとも思えません。でも神が存在するなら神に信頼してもらえるように生きたいものです。『無神論』(中央公論新社)の最終章で書いたことと基本的には変わっていません。嘘をつかない(少なくともごまかしや偽善のための意図的な嘘は)、という基本姿勢は田川さんから学んだものだと今でも思います。

いろいろ考えさせていただいてありがとうございました。

http://www.setukotakeshita.com/

 
 

「神の愛と試練」について

 投稿者:若生敏由  投稿日:2021年 3月 2日(火)11時30分57秒
  「神の愛と試練」に学ぶところがたくさんありました。
 イエスの荒野での試練をエデンの園の禁断の実の話と結びつけた説明は、とても説得的です。

 自由を神とのかかわりで考えることは、けっして無益ではないのでしょう。対立や矛盾の根源を受けとめたり、特定の方向への誘惑を調整できる力がなければ、自由は人間どうしで共有し合う価値を備えられないでしょうから。

「神は全てを与える。全体性以外は」という言葉は、だれのものなのでしょうか。人間どうしが自由であるためには、人間につきまとう不完全さや不可知を失念せずに、与えられている生と世界の現実に向き合い、何が可能かを考えつづけることが問われるのだろう、とおもいました。

「聖霊がイエスを荒野に追いやった」というマルコの一節について。
 ご存じかもしれませんが、田川健三が自身の訳著で興味深いことを記しています。興味深いというのは、本人が若い頃に出した『マルコ福音書・上巻』(1971)での注解を、『訳と註』(2008)では、不正確だったと率直に認めて、「この箇所は霊が何ほどか強引にイエスを荒野にほうり出した、という意味」であると記していたことです。学者であっても、通念や通説との的確な距離を保ち、確信を提示するのはやさしくはないのだなと感じました。

 それにしても、その箇所が三位一体のベースとなるところだという指摘は、信仰のない者を新境地に立たせるはたらきになりました。ほとんど繰り返しでしかありませんが、人間が求める自由に広がりのある秩序が備わるかどうかは、イニシエーションのような試練を経ることが条件になる、と捉え直せそうです。
 

グラさま

 投稿者:Sekko  投稿日:2018年11月 8日(木)01時47分54秒
  ありがとうございます。

この本はサイトのコメントにも書いたように、私の拠って立つ普遍主義というものの実現がいかに危ういものかを過去に学ぶために考察したものです。

特定の民族、特定の文化、特定の宗教の優位を担保するような偽の普遍的思考とは違い、脱共同体の地平を視野に入れて、1930年代のムニエの人格主義(他紙のブログの修道経済のところで少し触れました)のような新しい社会的な紐帯を、たとえミクロなレベルでも実践しなくては、と思っています。

http://www.setukotakeshita.com/

 

新刊を拝読させていただきました

 投稿者:グラ  投稿日:2018年11月 7日(水)10時55分38秒
  ご無沙汰しております。
「神と金と革命がつくった世界史」を読ませていただきました。
一度の通読では理解不十分なのは、私の力量の無さだと感じております。

アメリカの中間選挙はどちらが勝利しても分断が解消することはありません。
世界規模で、分断や格差が拡大しているのは、この竹下先生の本を読むと、合点がいきました。
原理的に、偶像崇拝化による「帝国主義化」しているグループのガチンコ勝負の観があるのだと思いました。
超克とは、目を覚ますことなのでしょうが、「気違いに刃物」の現状では、冷たい水をどのように用意できるかということかもしれません。
偶像崇拝のメカニズムも学びたくなりました。
新刊の出版を感謝します。
 

献本先

 投稿者:清眞人  投稿日:2018年10月30日(火)09時11分47秒
  清眞人と申します。先日、藤原書店から『フロムと神秘主義』を出版しました。同書で竹下さんの『キリスト教の謎』を取り上げさせてもらいました。第Ⅰ部につけた補注13と第Ⅱ部第五章360~361頁の箇所です。同書を献本させていただきたいので、送り先をご連絡くださいませんか?藤原書店にご連絡ください。  

ありがとうございます。

 投稿者:マルヤ  投稿日:2018年10月 2日(火)18時45分39秒
  参考文献に関する質問へのご返信ありがとうございました。
参考にさせていただきます。
また何かありましたら質問させていただくことがあるかもしれません。よろしくお願いいたします。
 

マルヤさま

 投稿者:Sekko  投稿日:2018年10月 2日(火)18時19分5秒
  ごめんなさい、確かに、他の参考文献はサイトでにあるような書き方をしていますね。

聖ヨセフはカトリックではビッグネームですから私の本の後にもたくさんの論文などが出ています。

google.frではこういうものが最初に出てきます。よくまとまっています。

http://voiemystique.free.fr/saint_joseph_04.htm
https://questions.aleteia.org/articles/135/qui-est-vraiment-saint-joseph/

英語なら、saint joseph theologyで検索するといろいろあります。

日本語では検索したことがありませんが、神学研究があると思います。

ドン・ボスコ社から出ている月刊の「カトリック生活」の今年の3月号は聖ヨセフの特集で、私もフランスの聖ヨセフ崇敬について書いています。バックナンバーを購入できると思います。

プロテスタント雑誌の「信徒の友」の今年の12月号には家族の形を考えるためのヨセフ論を依頼されて書いているところです。

今はネットで多くの情報を得ることができる時代で、取捨選択、そして自分が何を言いたいのか、をよく考えて、卒論以降の生き方につなげるようなものをぜひお書きください。

http://www.setukotakeshita.com/

 

文献についての質問です。

 投稿者:マルヤ  投稿日:2018年10月 2日(火)10時42分31秒
  初めまして。
大学3年生で卒論をイエスの父ヨセフについて書こうと考えております。
竹下先生の『〈弱い父〉ヨセフ』を読ませていただきました。ヨセフについて、信仰の起りから現在の家族の形への影響など幅広く書かれておりとても勉強になりました。
今回、こちらに投稿させていただいたのは題名の通り、『〈弱い父〉ヨセフ』の参考文献を教えていただきたいと思ったためです。主要参考文献は、本に載っており、その他の文献は公式サイトで、とのことでしたが、サイトにアクセスできませんでした。ブログや新公式サイトも探してみたのですが見当たりませんでした。もしそちらに載っているようでしたら教えていただきたいと思います。何卒よろしくお願いいたします。
 

カントについて

 投稿者:哲学に興味があります  投稿日:2018年 9月13日(木)12時02分22秒
  私は編入を考えています。編入を考えるにあたって、生きるとは何かについて大学の講義で考えました。
そのことを契機に生きることについて考えてきました。
生きている時間は無限ではない。死は誰しも避けることができない。限りある命ならただ生きるのではなく、善く生きたいと私は考えました。このことをなぜ哲学的に研究したいのかと言われても、はっきりと理由が言えるわけではありません。ただ言えることは、編入学を志したきっかけとして、私がこのままの未熟な状態では社会には出れないと感じました。今までの私は、言われるがままに流されて生きてきました。だからこそ、自分に意見があったとしても根拠を考えることができず、説得力のない意見しか述べれませんでした。だからこそ自分を好きになるために自分を形成したい。物事の根本を考えた根のある意見を述べられるよう、哲学を勉強したいと考えました。私の入りたい大学に編入した先輩の多くがカントを選んでいたため、私もカントから研究をしていきました。善く生きるとは何かについてカントも考えています。カントの平和論について、人はそもそも邪悪で放っておけば戦争をしてしまうという意見にとても共感しました。戦争だけではない、他のことにも置き換えて考えることができると考えたからです。平和について真の平和を考えていくのであれば、人間は邪悪ではあるが理性を持っているために、道徳について考えることができる。道徳があって真の平和に導き出せると思います。編入後はカントの考える道徳について、原文から解釈することで理解していくとともに、カントが生きていた時代の近代の近代哲学史を研究したいと考えています。近代史を研究する理由として、カントが平和について考える契機は歴との関係、ロマン主義、戦争が関係していると考えました。カントの考えを深く理解、総括的に理解するために、近代史の研究もして生きたいと考えました。しかし、幸福について、他の哲学者、例えばラッセルも考えていました。カントに絞った理由、根拠は何かと言われたら先輩がとなってしまいます。私の考えが浅はかなことは承知です。でもどういう考え方、カントを選ぶ根拠を考えれば考えるほどわからなくなってしまいまhした。どうかアドバイスをいただけたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。
 

宗教のじかん

 投稿者:沖島いちろう  投稿日:2018年 8月25日(土)15時16分16秒
  で教えを聞いて努力は正しいかいのりもする  

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